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(みかづきだより第4・5・11.26号より)

私たちは各自治区を何気なく使っていますが、その地名は古来より色々なかたちでその場に応じた名前をつけてよんだのが始まりではないでしょうか。

 

「魚返(おかえり・おがえり)」
地誌『豊後国志』の中に魚返瀑~とある。玖珠川の下流から上がってきた魚は、三日月の滝まで上がってくるが、それから上流には上がられず魚は引き返していた。その為、三日月の滝を昔は魚返りの滝と呼ぶようになった。後に滝が三日月の形に似ていることから、三日月の滝と呼ばれるようになった。
 北山田駅から西の方に魚返城跡があるが、魚返氏の城で、魚返の姓も以上の伝承によるものであろう。現在、魚返の姓は朝見集落がその一族である。

 

「矢野(やの)」
平安時代、矢野検校久兼が、この辺一帯を宰領していたので、それから矢野と呼ばれるようになった。

 

「杉塚(すぎつか)」
山田郷と古後郷との境に、塚を作ったことからその名が付いた。

 

「下泊里(しもづまり)」
湯の釣(現在の下泊里集落の上流100mばかりの所)に温泉が湧き、その温泉に来た客が下の集落に泊まったので下泊里という。

 

「滝瀬(たきぜ)」
至徳3年(1338年)8月15日より、大雨が約1ヶ月間降り、その後大洪水となった。長雨で万年山山麓の一角が崩れ落ち、玖珠川の濁流をせき止め、せき止められた一角が崩れ落ちて、滝へと流れたので滝瀬という。

 

「柿西(かきさい)」
柿西は柿木といい、同地の田んぼの中に「柿木どん(長者)の塚」と呼ばれる塚(何処にあるのかは不明)があり、西側に位置するので、柿西というようになったとか。
又、地元の方の話では「大東亜戦争が始まり、1.2年は勝ち戦でしたが、その後は負け戦となり(中略)近隣の部落が、2部落ないし3部落が統合され、組や農事小組合が合併された時がありまして、その時柿の木部落と、西応寺部落が合併して柿西といわれるようになった」という。

 

「代太郎(だいたろう)」
その昔、代太郎という開墾者がいたので、その人の名が付いたということです。

 

「石櫃(いしびつ)」
この地から多くの石棺が出たので、この辺りを石櫃(いしびつ)と言うそうです。

 

「鏡山(かがみやま)」
現在では、風力発電装置があり、11基の大きなプロペラが回って、観光客の目を驚かせています。
今日地球温暖化で、山々の「つらら」も昔ほど少なくなりましたが、その昔、鏡山は水がジトジト落ちていて、冬ともなれば水柱が下がり、それが朝日に当たれば鏡のようであったそうです。そこで鏡山と名が付けられたということです。