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(みかづきだより第32.33.34号より)

(其の一)
玖珠郡史に、次のような文書がある。

~至徳三年(一三八六)八月十五日より大雨降り続くこと三十日余り、九月十五日四つ時(午前十時)より大洪水にて、玖珠郡人民、牛馬山に登り、水湛うること三十余日、田畑いちじるしく変わりて損耗大なり。大友氏(十代観世)より人夫一万五百人、九月二十五日より翌嘉慶元年(一三八七)六月二十九日まで飢夫に食を下され(以下中略)この時、粟野牧口八幡宮上の原に影向(神仏の来現の意)水上がりし給う、其事明日なり。この時日の内、水に溺れ死する人少なしといえども玖珠郡中八百余人なり。此の時岩崩れ河に横切り大道水堪え、久しく滝となる故、ここを字滝瀬と号す。~(玖珠郡史より抜粋)

とあり、現在の場所はJR久大線トンネルより下流と思われる。

 

(其の二)
この至徳の大洪水は、今から約600年前、大友氏(当時の大名は十代観世)が豊後を統治していた頃の出来事である。

ところで、この大洪水の記事は、洪水後約200年を経過した頃に書かれた「玖珠郡旧談」によるもので、史実の確実性には疑問もあるが、否定する史料もないので、一応旧談の説に依るほかはない…といわれているのである。

尚、今まで文として書いた外に、「滝瀬楽の楽文」等多々あり、これらの諸説を要約してみると、この時の豪雨で、万年山麓の一角が突然崩れ落ち、玖珠川の濁流をせき止めた。

そこで玖珠盆地はみるみる濁流の渦巻く巨大なダムと化した。せき止められた場所が今の滝瀬地区の前面であったので、住民達はおののき、ひたすら氏神瀧神社に祈りを捧げ、救いを求めた。 

 

(其の三)
~やがて満願の夜が訪れた。滝の権現様は、コツテ牛(雄牛)の姿で現れ、洪水をせき止めていた一角を突きほいだ。せきが崩れ、濁流が轟音をたてて流れ出した~とあり、字「滝瀬」の地名はここに由来しているという。

土地の人達は、この大難が神社の祭神(滝津姫の命、外2柱)のおかげで救われた事を深く感謝し、報恩の意を込めて作ったのが「滝瀬楽」であると伝えられている。

滝瀬楽は、滝瀬・西方寺・柿の木・井原・竹尾の5部落の住民が相談の上、毎年瀧神社の祭典に「楽」を奉上し、子々孫々に至るまで神を敬うことを誓ったのが「滝瀬楽」の始まりといわれている。

一時中断した「楽」を再開するにあたり、大庄屋中島家が建立した平川の芳蓮寺を滝瀬楽の支度所にあてている。
尚、この滝瀬楽は昭和46年3月23日付を以て、県の重要文化財に指定されている。いずれにしても北山田の宝であり、今後も大切に保存して行きたいものである。