浦河内川は、町の西北部を東北より南西に向けて走る6㎞余りの支流である。山中・井川道・河内・小清原の小さな谷を水源にして、田の平あたりで合流し玖珠川に注ぐ。流域にはいくつかの集落が点在し、耕地が広がり、小さな平野部が展開する。川の水量は少なく、遠く豊前と筑後の分水嶺と言われる高堂台地の湧水などを利用した溜池で耕地を潤してきた。古くこの地域は山田郷に属し、水源地付近の東寄りの一部は古後郷に属した。中世ここは清原魚返氏の支配する処となる。この当時作られた土地の領有関係をある程度理解する事のできる弘安図田帳には、魚返三郎成秀をはじめとし、三代後の魚返次郎通秀、同三郎通資、同弥六通直、同九郎政網、小次郎通近の名が見られ、小田氏より分かれこの地を開拓領有する。400年に近い歴史の盛衰の中に戦国末期まで、その一族の名を戦史の中にとどめる。
江戸期にはいると川の上流地域小清原村、木牟田村は森藩領になる。小清原村は明治4年廃藩置県まで藩領として残る。木牟田村は二代藩主通春の第三子通逈の分知となるが、通逈に子がなく弟通重を養子とする。ところが本藩四代通政に後継がなく、通重が継ぐ事になる。木牟田村は相続するものがないという事で幕府領(天領)に取り上げられる。正徳2年(1712年)である。他の集落はそれぞれ戸畑・四日市・魚返村に所属し、幕府領になる。然しそれは貞享3年以後で、慶長の初め佐伯毛利藩の領地、元和2年は日田藩石川領、寛永10年から16年まで木付藩領地、寛文5年から6年は肥後藩の領地、天和2年は日田藩松平領など多くの領主が変わる。
延享2年(1745年)日田・玖珠の幕府領内に、時の代官岡田庄大夫の苛斂誅求に農民達が立ち上がる騒擾事件が起きる。天領の農民達は森藩領平原付近に押し出し、不穏な動きをする。また代表馬原村庄屋、穴井六郎左右衛門は、一子要助と組頭惣次郎と共に江戸に向かい、暴政非道を幕府に訴える。当時天領であった三ヶ村(木牟田・戸畑・魚返村)は、戸畑・魚返村はこの騒動に参加し、指導者達は村から追放される。木牟田村は事件を静観し、その行為はのち代官より賞される。小清原村は森藩領、四日市村は小倉小笠原藩の治下にあって、事件外にあった。事件後、森藩領を除いた村々は、幕府領となり、明治維新を迎える。
下流に平川という川に由来した地名がある。岩床が一枚板の如く平らであり、流水が全面に平均して薄く浅く流れる珍麗な現象が見られる。川沿いに、明治の初め学習院の漢学師として召された広瀬淡窓の高弟劉君鳳の生家の跡がある。川べりには、この君鳳が上京前、郷土子弟の為開塾した緑芋村荘の石垣のみが、今も静かなたたずまいを見せる。
(「玖珠川歴史散歩~玖珠郡史談会編~」より抜粋)