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平成13年3月に発行された「玖珠町史」によると、《昭和十九年二月のこと。一機でも早く送れとの前線からの血の叫びに応えて、村では間もなく「愛国北山田号献納委員会」が結成されました。ただちに全村に呼びかけ五日間で九万円を突破、十五日締め切りの結果、実にその金額は十六万七千八百円と云う巨額に達した。献納飛行機北山田号の命名式は、陸軍大臣代理出席のもと戸畑国民学校の校庭で厳粛に挙行された。「戦闘機愛国郷土号」の雄姿を眼前にして五千村民感涙のうちにその「命名式」を終了した。(中略)》と記録されております。

 

このことに関して、当時満州のハルピンに行っておられた方から次のような話を伺いました。

「慰問袋や内地(日本本土の呼び名)からのたよりに〝村が戦闘機を献納した″ちゅう噂もあるが何のこっちゃろうか、と思うちょった。そりがある時「北山田号が飛んじ来た!」ちゅうから空を見たら、ホンなこっちゃ。翼に書いちょる〝大分県北山田号″の文字を確認したときゃあ正に狂喜乱舞。帝国の花と咲き開いた吾が郷土北山田のその熱き心にふれち、誇りも高く鼻高々として鳥肌立つ思いじゃった」と。

 

家財道具一式ではありません。前後して気前よく海軍にも一機、併せて二機の飛行機を国家に献納したんです。当時の貨幣価値云々は別として、他地域では聞いたこともないこの大事業を短期間に成し遂げたエネルギーは、当時の北山田団結の姿を物語っているものと感じました。世が世であれば、やむに已まれぬ強引さがあったかも知れませんが、この地域力は今どき見習うべき処があるなァと思っています。

ちなみに、二機の愛国郷土号の行く末については、当時のこと壮絶だったに違いありませんが、残念ながら耳に届いていません。

 

 

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(頓宮宗正さん提供)